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一抹の哀しさ
- 2019.05.22 Wednesday
- 無想会
- 10:34
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- by 沖縄空手道無想会・沖縄同好会
JUGEMテーマ:空手道
空手のことを想うときは常に、頭の片隅にフッと一抹の哀しみの感情がよぎります。
このようになったのは、3〜4年程前にとある沖縄空手のセミナーを受講したのがキッカケでした。
今でも、そのときの強く深い哀しみを良く覚えています。
新垣師範のセミナーを受けた経験が有ったがために、その指導内容の密度の余りの格差に愕然としてしまったのです。
詳細は詳しくは述べません。
しかし私は、現代沖縄空手の底というものを、この日はっきり見たかのような思いをしました。
しかし私は、現代沖縄空手の底というものを、この日はっきり見たかのような思いをしました。
自ら強い哀しみの感情を感じたことで理解できたことがあります。
新垣師範は、年に2回アメリカから来日し、それぞれ約1月ほど滞在して指導を行います。
その労力は並大抵のことではないはずです。
私は、新垣師範のこのモチベーションがどこから来るのか、ずっと不思議でした。
安直に、新垣師範がとても強い熱意を持った人だからできるのだろうか?なとどと想像していたかと思います。
しかし、哀しみの感情を自ら理解した後、それは違う!と断言できます。
勿論、強い熱意もあったでしょう。
しかし、新垣師範はそれだけではなく、きっと強い哀しみを懐に抱えているからこそ、これだけのことを行えるのだと思います。
しかし、新垣師範はそれだけではなく、きっと強い哀しみを懐に抱えているからこそ、これだけのことを行えるのだと思います。
人は、強い悲しみには打ちひしがれますが、強い哀しみにはその逆の反応を示します。
哀しみは悲しみと同じ負の感情、決してプラスの感情ではないはずですが、しかし、悲しみとは違い、人は強い哀しみを受けると突き動かされるのです。
哀しみは悲しみと同じ負の感情、決してプラスの感情ではないはずですが、しかし、悲しみとは違い、人は強い哀しみを受けると突き動かされるのです。
慟哭、まるで叫びだし走りたくなるような感情。
それが哀しみなのだと知ることができました。
それが哀しみなのだと知ることができました。
思い返せば、無想会の前に学んでいた流派を離れるときも、心に哀しみがありました。
離れた流派も自らの師も好きでした。
しかし、真理が欲しかったがために離れることを決意しました。
真理の探究とは、好き嫌いで決めることでは有りません。
「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親眷に逢えば親眷を殺して、始めて解脱を得ん」
という禅の言葉そのものです。
という禅の言葉そのものです。
その対象にどれだけ親愛の情を持っていようとも、真理から外れていると感じたのなら、殺す(否定する)しかないのです。
ただ、辞めるに当たって心に決めたことが一つあります。
義理立てというわけではないですが、それはこの先対象が何であろうとも、"殺す"ことをためらわないということ。
義理立てというわけではないですが、それはこの先対象が何であろうとも、"殺す"ことをためらわないということ。
たとえそれが、真理に限りなく近い「仏」や「羅漢」であろうとも。
・・"殺す"時には常に哀しみが付き纏いますが、またそれが新たなモチベーションとなります。
あの時感じた強い哀しみが心に有る限り、私は空手からは離れることはないでしょう。
あの時感じた強い哀しみが心に有る限り、私は空手からは離れることはないでしょう。
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- ■プロフィール 沖縄空手道無想会沖縄同好会 ■練習場所 沖縄県沖縄市および那覇市 ■連作先 musokai_okinawaken@yahoo.co.jp
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